なぜ再び北を目指すのか

19歳の夏、私は始めて北海道の地に降り立った。高校時代に読んだコリン・フレッチャーの「CompleteWalker」に影響されて、大学に入学したら、本格的にバックパッキングを始めることを決めていた。そして、日本に残された最も自然豊かな土地は北海道に違いないと思い込んでいた。北海道ワイド周遊券を買い、国産のやわなフレームザックに16kgの荷物をパッキングして、私は旅立った。期間は約30日間、キップの有効期限が切れても夏が終わるまでは北海道で過ごしたかった。

今年もまた、夏がやって来た。私はevoと共に北海道に旅立つ。
旅の途中でいつも思い出す、一編の詩がある。

旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱のタバコと笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌えて出た若芽がしっとりぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を吸おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

「二十歳の原点」高野悦子著より

あれから24年が経った。当時のものは、ほとんど残っていない。600枚以上あったポジフィルムも下宿時代の保管状態が悪くカビにやられてしまった。フレームザックは壊れ、テントは知人に貸したりして、残っているは、ホワイトグースダウンの詰まった「天山」の厳冬期用シュラフぐらいだ。つまり、かたちあるものは必ず壊れるということだ。人間にしても出会いがあれば、別れがある。もちろん、自分自身にも誕生があり、死が訪れる。まさに万物は流転するのだ。

その中で、変わらないものは、月並みな言い方だが、思い出だった。北海道を旅すると大学生だった自分のことを鮮明に思い出す瞬間がある。人間の記憶のメカニズムはすべて解明されていないが、コンピュータのHDよりはずっと大きな容量があり、かなり幼い時の記憶もきちんと記録されているらしい。しかし、それを引き出すカギがなければ、膨大な記憶の図書館に埋もれたまま二度と思い出すことはできないようだ。私にとって北海道を旅することは、学生時代に旅した記憶を呼び覚ますカギになっているようだ。自分でも完全に忘れてしまった記憶が鮮明によみがえることがある。不思議なことだが、昨年、旅したことよりも24年前のことをはっきり思い出すことがある。記憶は繰り返すことによって強固なものになるらしい。また、強い印象を受けた記憶ほど忘れがたいものになることも分かってきた。

だとすれば、私が北海道を旅する目的は、日常生活の脱却よりも、過去の自分に出会うためなのかもしれない。そして未来の自分が「Ducati M944evo」に乗っていたことを鮮明に思い出せるために、今年も北海道を走ろうと思った。